スポンサードリンク

フードスタジアムセミナー×焼肉ビジネスフェア2018 ミートフード EXPO 「新時代の焼肉店の勝ち方!〜大繁盛店の経営者に学ぶ〜」イベントレポート

焼肉ビジネスフェア2018
スポンサードリンク

具体策

大山:具体的にはどのような策を講じたのでしょうか?

:焼肉のポイントとは、まず材料。これは間違いありません。当時の焼肉店では、肉は電話かファックスで業者に注文するのが一般的でした。当店もそうしていましたが、そうして注文した肉は、良いものと悪いものの品質のばらつきが大きいことに気づきました。ところで、街の寿司屋の多くは、夜9時くらいにはお店を閉めます。それは、朝早くに築地に自分たちで食材を買いに行くから。焼肉店は寿司屋に学ぶところは多い。どちらも「材料型」の商売だからです。でも、焼肉店は素材のことをよく知らないし、市場に行ったこともない。これはおかしいということに気づき、仕入れ業者に自ら肉を見て仕入れたいというお願いをしました。そんなことを言う人は、当時は珍しく断られました。ですが、引くに引けず、自分の目で素材を選べる肉屋を探しに出ました。今思うと、これが成功の第一歩だったような気がします。

調べてみれば、バラ肉ひとつをとっても幅広い価格帯の肉がある。自分の目で見てバラ肉を仕入れたい。選べる立場で、お値打ちなものをゲットして商売するにはどうしたらいいのかというと、結局、それは人間関係に行きつきます。人間関係がしっかりできていないと、良い材料が手に入らないですし、良い業者とも知り合えません。

仕入れを改善すると、常連のお客さまが、「あれ、いつもよりおいしいね」と気づいてくれる。値段は今までと同じで、良いものを仕入れているので。すると、月に1回の頻度で来ていた人が2回来てくれるようになる。そうして少しずつ繁盛していきました。

焼肉ビジネスフェア2018

私が店を継いだのが1996年でした。実は、その時代は焼肉だけでなく、外食産業そのもの、ひいては経済そのものが成長期だったのがポイントだったと思います。その当時は、従来の焼肉店にないものを出すとウケるような、いわばマーケットの拡大期でした。しかし、現在はマーケットが完全に縮小している状態。昔から続く老舗の焼肉店すらも、そこをしっかり踏まえられずに苦労していることもあるほどです。2000年~2002年くらいが外食産業の最盛期だったように思います。当時の産業全体の売上額は30兆円近くあった。ところが、今は24兆円を割るくらい。少子化に伴い、食べる人、作る人が少ない時代に入っている。この点をしっかりと考えていかないと、昔の焼肉店を否定するわけでないですが、今と昔で根本的にやり方を変えないといけないと思います。

昨日、安倍首相が今年を「はたらき方改革元年」と言っていましたね。今までの焼肉業界の労働環境は、正直、良いものとは言えませんでした。焼肉店は、労働コストを下げる分、材料費をあげていた。これは、本来、働く人の給料が吸収されていたということです。今後は、材料費などのFLコストをいかに労働コストに移行できるか、焼肉業界に限らず取り組んでいかなければなりません。今、焼肉はもう高付加価値の時代。たとえば白菜キムチが380円だったら、これからは480円で売らなければならない。その増えた100円分の価値をお客さまに感じさせる努力が求められます。

本日のテーマ、「新時代の焼肉」ということですが、これまで焼肉業界がどう成長してきたかや、私の多くの失敗を振り返って思うのは、「焼肉店は絶対に楽しい!」ということ。これだけは伝えたい。焼肉の楽しさ、それは材料の最後の調理を、お客さまにゆだねるということ、ここがミソ。この材料を出すまでの過程にさまざまな仕組みを作って、そこを楽しんでもらうことが、焼肉店の使命です。

現在の「正泰苑」総本店

現在の「正泰苑」総本店

大山:ありがとうございます。では、次は呉さん、自己紹介をお願いします。

呉 成煥氏(以下、呉):現在は都内で「炭火焼ホルモン ぐう」を8店舗運営。13年前に創業しましたが、もともとはアセットインベスターという不動産の会社でした。2003年、小学校時代の同級生の友人と後輩、私の3人で共同設立し、不動産売買を行っていました。その不動産取引をする過程で、本店となる八重洲の物件に巡り合ったのです。普通、不動産の考えでいけば、物件は貸すか売るかでしたが、当時はすさまじい立ち飲みブーム。8坪の物件で、八重洲という場所柄もあり、立ち飲み屋をやったらおもしろいと考えたのです。初代の店長となるスタッフと1日に5~10件の立ち飲みをまわってリサーチをしました。しかし立ち飲みは断念し、私が在日韓国人ということもあり、「やっぱり焼肉だな!」と、焼肉店を開業するに至りました。私は料理はできませんが、日ごろから尋常じゃない件数の飲食店を食べ歩いていて、店のよしあしをジャッジする自信はありました。お客目線でいい店が作れるのでは、と始めたのです。

「炭火焼ホルモン ぐう 八重洲 本店」の様子

「炭火焼ホルモン ぐう 八重洲 本店」の様子

本店をオープンするまでには10カ月ほど時間をかけました。まずは店長を焼肉店に修行に出し、その間にコンセプトや店舗デザイン決めていました。不動産事業も並行して行っていたので、割とのんびり進めました。2006年12月にオープンしたかったのですが間に合わず、12月と1月はずっとレセプションをしていました。毎日、知り合いが店に出入りしている様子をみて、通りがかりの人は「看板もないのにいつも人が出入りしている店」と不思議がりました。そして正式にオープンすると、たちまちお客さまでいっぱいになりました。当時、世の中はホルモンブームで、ホルモン好きの女性を指す「ホルモンヌ」という言葉があったほどで、当店にも多くの女性客が詰めかけ、ブームに乗ったことも大きかったと思います。8坪20席の店ですが、毎日100人くらいのお客さまを断っていました。この現状はもったいないので、近所でどこでもいいから次の店舗を出そうとなったところ、徒歩15秒ほどの雀荘跡の物件に巡り合いました。雑居ビル6階で、そこに飲食店を作るというのは常識的に考えられませんでしたが、契約し、本店の開業から1年後には、「炭火焼ホルモン ぐう はなれ」オープンし、そこもお客さまがあふれるほどになりました。さらに、八重洲界隈で物件を探しましたが、焼肉店ということで匂いや煙を気にして貸してくれるところはなかなかありませんでした。そんな中で見つかったのが、長い間、空物件だった新橋の物件。坪5万円という超破格の家賃で、誰も借りずにいたようです。ここくらいしかなかったですし、当時、素人だったので「えい!」と借りてしまいました。ですが、この店は立ち上がるまで5年かかりました。八重洲の店で出た利益を溶かす店でしたね……。

大山:日本橋にも出店されてますよね?

:日本橋の店舗は、当初は匂いや煙を理由に断られていた物件でしたが、やはり家賃が高く借り手がなかったようです。ということで、一度は断られたものの、向こうからオファーがきて、二つ返事で借りることに。そうこうしていると野村不動産から、出店しませんか、とオファーが。そのとき、金社長に相談したら「やらなきゃダメだよ」と言われ、舞い上がって出店を決めました。5店舗目までは勢いとノリと感覚でやっていました。その裏で、現場のスタッフが、がんばってくれていたんですね。

炭火焼ホルモン ぐう 日本橋」の様子

炭火焼ホルモン ぐう 日本橋」の様子

大山:その後、五反田、池袋。ここ2年くらいですね

:6店舗目までは軌道に乗せるのに苦労しました。そして今年、新業態を作るために新会社を設立。それがユニバーサル・ダイニングです。アセットインベスターの運営委託を受け、「炭火焼ホルモン ぐう」を運営しながら、新業態を開発する会社です。

大山:店を創業しようと思ったとき、料理人はいなかったんですか?

:ええ。初代店長が、偶然、知り合った人で。調理はできないけど、包丁は持てるからやろうかという感じでした。ですので、後輩の焼肉店に修行に行ってもらいました。

大山:初代店長の李さん、今は赤坂の大繁盛店「炭火焼ホルモン かぶん」という店を経営されています。では、金さんに質問ですが、事業継承についてはいかがでしょうか?

:繁盛店を受け継いだわけではありませんし、事業承継に大きなハードルがあったわけでもありません。今の焼肉業界の2代目は大変そうだと思いますし、よく相談もきます。「それは説得するしかないね」というのが落としどころという場合も多い。銀行に対する信用度なども考慮すると、しっかりと考えて、創業者の同意も得て、自分の想いだけでなく働く仲間、業者、お客さまにとってどういう状態がいいのか、時間をかけてちゃんと答えを出さないといけないと思います。

大山:金さんが継ぐことになったのはどういう経緯があったのですか?

:兄が2人いて、私は末っ子です。事業をしていた両親が、突然10坪の小さな焼肉店をはじめたのを我々兄弟は衝撃を受け、兄たちは継ぐのが嫌だったようです。だから、家族が望むのであれば、という感じで私が継ぎました。当初は、あまり野望などはなかったですね。

広告

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です